小橋 昭彦 2008年2月18日

 うっすらと雪化粧した朝、同郷の俳人、捨女の作とされる「雪の朝二の字二の字の下駄の跡」を思い起こしつつ、子どもの手を引いて保育園バスの待合所まで歩く。着流しに下駄が普段着なのだが、板についていないのか、つま先で地面をけってしまう。おかげで跡は二の字にならぬ。一筆目がにじんだ三の字だ。新雪の上に三男の小さな足跡、寄り添って三の字、三の字。
「あ、みて」
 畑から出て路面を横切った先客があったらしい。ネコの跡かなあと聞くので、いや、タヌキかアナグマかもねと、詳しくない父親は、いい加減な答え。まてよ、アナグマって冬眠するんじゃなかったっけ。あとで調べておかなくては。
 待合所について、子どもはハァッと息をはき、
「わあ、煙、汽車やで」
「それはな、煙じゃなくて息が白くなったんや」
 この答えには自信があるが、白い息を蒸気機関車に見立てる子どもの方が正しい気がして仕方ない。手をこすり合わせていると、
「ね、ね、発見したで」
「何?」
「寒いときな、鼻のてっぺんだけ、寒いんやで」
 自分の鼻に手をやる。そこはいっそう冷えている。
 ほんとだと微笑みあった瞬間、長男からの質問を思い出した。クラスで一人だけゲーム機を持っていない彼が、その理由をどう友だちに説明したら良いかと尋ねたのだ。そうだ、彼には今度こう答えよう。
 それはね、ゲームは人間が作った世界だから。その中だけで遊んでいたら、下駄の跡が三の字になっちゃうことも、自分が汽車になれることも、鼻の先だけ冷たいことも、気づかないままだろ。人間は、設計にない出会いを通して、大きくなるんだ。
(神戸新聞2月15日「随想」掲載)

5 thoughts on “雪の朝の大発見

  1. これ、いい言葉ですね。
    > 設計にない出会い
    ただこれを伝えても、
    SNSだって、ケータイの出会い系だってそうだ、
    と生意気にも解釈を捻じ曲げられそうな恐れがあり
    ますが、こういう「生」の体験とともに伝えれば
    分かり合えそうな気がします。

  2. ひと子さん、力強い言葉、ありがとうございます。
    人が出会うのは人とだけではないってことも重要じゃないかと、最近思っています。そういう出会いの方が、人の可能性を拡げてくれる気もします。
    で、人との出会いってことでいえば、
    >SNSだって、ケータイの出会い系だって
    もちろん(設計された世界における)設計にない出会いなんですよね。その延長で言えば、単なるコミュニケーションじゃなく、人と出会っているんだってことを、むしろもっと意識した方がいいかもしれません。

  3. 一定の限定時間でのゲーム機での遊びは、人間世界の文明に取り残されないため必要でしょうが、子供は自然の中でのびのびと育つようにするのが大人の務めと思います。『ゲーム機」や
    『携帯電話』などで多忙となり、自然の風景の中での感動・感激、親に対する感謝、人に対する『思いやり』など本来の人間に与えられた文化(儒教、武士道などの教養学習含む)に親しむ時間を時には強制的に費やす時間をたっぷり取る必要性を痛感しています。?休日には、国旗掲揚している『愛国者』ですが右翼ではありません。小心な凡人より

  4. わが子はDSを持っていますが、やって良い時を親と相談して、時間を決めて、やるようにしています。ゲーム自体が悪いとは思いませんが、そんなにゲームばかりやらなくとも...とおもいます。
    ゲームより面白いことがあるよって、子供に教えてあげることが大切だと考える昨今ですが、その気持ちに応えてくれる「随想」でした。我が意を得たり!
    人が人の世界だけで暮らしてはいけないですよね。良い意味でも悪い意味でも自然と接していかないと...そう感じました。

  5. ありがとうございます。おっしゃるとおり、ゲームを否定するっていうんじゃなく、日々の生活、人とのつきあいのなかでのバランスだと思っています。
    ぜひ、ノのノさんのように気持ちを共有いただける方が増えると、とっても嬉しいです。

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